2009-03-31から1日間の記事一覧

人生は能である。ここに東西はコモンセンスを持った。

「ラシーヌ」論でロラン・バルトは言う。神や王や父で人は自己を作り、 社会を生きて、自己を喪失し、 喪失した自己に霊が現れる。これが人間の存在構造だ。これはシテ自己とワキ自己が能をやって、 そこに霊を出力することだ。これは能と同じ構造だ。

すると宗教や道徳、成功や幸福追求は人生の否定である。自己がそれらに呑み込まれている。 これは神から授かった自己ではない。

人生は能である

人が生きることは能である。社会的自己をシテとし、精神的自己をワキとする能である。 シテとワキの間に、綺羅星が出れば能は成功である。

即ち、異物排除システムは崩壊した。自己否定・自己破壊・自己抹殺の自己否定・自己破壊・自己抹殺に生きている。意識不明は、認知症×自閉症だ。 これが神仏の刑務所であり、精神病院だ。

何をやっているのだろう。訳も分からず、遮二無二に生きている。生きること自体が崩壊した。ここで快楽を得るなら、強い刺激を求めるしかない。 それが戦争であり、犯罪であり、狂気であろう。

幸福追求発振系は、サチュレーションし、崩壊する。幸福を追求しても、幸福や感動は得られないが、 幸福や感動を追求しない訳にいかない。これが現代世界だろう。

自分の中に快楽自己と不快自己を作り、 快楽自己とが不快自己をいじめ殺す。即ち、自分の中に自分の敵を作り、 この敵を異物排除する。この喧嘩闘争、或いは戦争が、 快楽優勢の内は問題がない。その内、敵も強力化し、勝敗が付かなくなると、 快楽追及自己…

異物排除は快楽原則である

不幸を排除し、犯罪を排除し、病気を排除し…、 遂に国家や文明、人類や人間や自分を排除し始めた。異物排除システムは、遂に自己排除の最終段階に来た。現代世界は、自分を排除しつつ、自己を守る状態だ。リストカット段階といったらいいのだろうか。 自分の…

法治国家は神の作った世界に介入し、神に罰せられた。それが現代世界である。 そこは権力が無力を殺して食う世界である。これは犯罪であるが犯罪とされない。これが法治世界である。 法は強盗殺人装置であった。

国家が犯罪を罰することは無矛盾である。 よって社会秩序は実現しない。この文章が誤りだとする。 すると対偶問題となって、 国家が犯罪を罰しないと、社会秩序は実現するとなる。二つの文章は対偶=相互否定であるから、 現実にワンセットで成立する。

法は国家や司法の犯罪を制裁できるか。出来るともいえるし、出来ないともいえる。 ただ一つ正しいことは、社会秩序は法に関係なく存在している。

死刑はGoedelの不完全性定理であった。政権交代は一種の権力の死刑である。だがこんなことでいい社会は出来ない。法は権力と無力に社会を切り裂いた。 これは国家や司法が行った。

国家が犯罪した時、 法は国家を罰することは出来ない。これが法が下した、法への罰である。 即ち、法は国家や司法自体を犯罪組織とした。そこで先ず究極の国家犯罪である死刑をヨーロッパは廃止したのだろう。

西欧は法を導入して、罰を入れた。これを何千年もやってきた時、 国家や法が犯罪を犯した時どう罰するかが問題になってきた。即ち、人を罰することは、法を罰することだ。 法は犯罪である。

罰は自罰である

お上日本は、殺すか殺されるかの一人称衝動にあり、 罰の問題自体存在しない。殺したものは殺す、 ここに罰の考えはない。あたかもあるように装っているが、 やられたらやり返せ、 これがいじめ殺しであり、 これに罰はないことで、罰がないことが分かる。